カテゴリ
🎥
ショートトランスクリプション
00:00あなたは、古代の朝鮮人が日本を支配していた、ということを聞いたことがありますか?
00:20私はYouTubeで、何度もそう言われました。
00:23しかし日本書紀には、三冠制伐や未満な日本譜について書かれています。
00:30ですから、私は、日本人が古代の朝鮮を支配していたと、ずっと思っていました。
00:37しかし多くの人たちが、古代の朝鮮人は日本を支配していた、という噂を流しています。
00:44もしかすると、朝鮮の歴史書には、古代の朝鮮人が日本を支配していたと書かれているのかもしれません。
00:52朝鮮の歴史書である三国式を読んでみましょう。
00:56三国式によれば、日本が最初に登場するのは、紀元前50年の記録です。
01:04当時、日本は和と呼ばれていました。
01:068年、紀元前50年に、和人が兵を率いて、返協を犯そうとしましたが、
01:14子祖に神徳があるということを聞いて、すぐに帰りました。
01:1938年、紀元前20年の春2月に、古皇を馬漢に派遣して、外交関係を結ぼうとしました。
01:27古皇という人は、その属性が不明ですが元は和人で、
01:30ひさごを腰に釣って海を渡ってきたために、古皇と称しました。
01:36驚くことに、古皇は日本列島出身であり、彼は白城の政治の中枢にいました。
01:4211年、西暦14年に、和人が船を100艘余り派遣して、海辺の民家を略奪しました。
01:516部の強兵を出撃させて、これを防御しました。
01:55脱海に資金が即位しました。
01:58王は都会ともいい、62歳で、姓は赤で、妃は赤王夫人です。
02:04脱海王は、本来は多花国で生まれました。
02:08その国は、和国の東北一千里にあります。
02:10あらまあ、白城の四大王は日本列島から来たようですね。
02:172年、西暦58年の春正月に、古皇は白城の最高官位である大夫を拝命しました。
02:25つまり、当時の白城の王と最高官位は日本人だったんですね。
02:31その後、73年、121年、208年に、和は白城を攻めました。
02:38さて、ここまで私たちは紀元前50年から紀元208年までの三国式の記録を読み終えました。
02:47この期間は、だいたい中国の前漢の時代に相当します。
02:52今度は、中国の歴史書をちょっと読んでみましょう。
02:55五漢女、漢85、遠い列伝、第75、三漢、馬漢伝。
03:04その南海は輪に近く、全身に入れ墨を施しているものもいます。
03:09五漢女、漢85、遠い列伝、第75、三漢、新漢伝。
03:15国内で鉄を算出し、輪、輪、輪、馬漢などが、これを求めに来ます。
03:23五漢女、漢85、遠い列伝、第75、三漢、弁新伝。
03:29その国は輪に近い上に、全身に入れ墨を施しているものが多くいます。
03:34あらあら、中国の歴史書によれば、朝鮮半島南部には、和人と思われる、入れ墨をした人々がいたそうです。
03:44また三国式によれば、和人はたびたび、白城に攻め入りました。
03:50さて、三国式に戻りましょう。
03:543年、西暦232年の夏4月に、和人が突然に現れ、白城の使徒である金城を包囲しました。
04:01王は自らが出馬して戦い、敵を敗走させました。
04:06王は軽機兵に追撃させ、1000人以上の敵を殺したり捕虜にしました。
04:12最後に和軍は負けましたが、白城の使徒を包囲しました。
04:17その後、233年、249年、287年、292年、294年にも和は白城を攻めました。
04:28おや?295年の記録は非常に興味深いですよ。
04:3512年、西暦295年の春に、王が進化に向かって、和人が、しばしば和が領土を犯してくるので、領民が安心して生活することができない。
04:45私は、九太らと共に図って、一時海を渡っていって、その国を討ちたいが、みんなの意見はいかがか?
04:53と聞きました。
04:55これに対して、貢献が、我々は海戦に不慣れでございます。
05:00冒険的な遠征をすれば、不足の危険があることを恐れます。
05:04ましてや、九太らは偽りが多く、常に我が国を飲み込もうと、野心を持っておりますから、彼らと共に図ることは困難だと思います。と答えました。
05:14王は、これを聞いて、それもそうだと言いました。
05:17あらあら。三国式によれば、白城の兵は、海戦に不慣れだったそうです。
05:25どうやって彼らは、和を支配したのでしょうね。
05:3037年、西暦346年に、和兵が突如として風島に来襲し、返協の民家を略奪しました。
05:38また、進軍して、白城の使徒である金城を包囲し、激しく攻撃してきました。
05:43王は出撃して戦うことを望みましたが、後世が、賊は遠方より到来しており、その戦法と当たるべきではありません。
05:53我々は何もせず、賊軍の疲労を待てばよいのです。と答えました。
05:57王はこれに同意し、門を閉ざして出撃しませんでした。
06:01敵は、食料が尽きて退却しました。
06:05王は後世に命じて、強靭な騎兵を率いて、敵を追撃させて、これを敗走させました。
06:10和軍はまた白城の使徒を包囲しました。
06:17その後、364年、393年にも和軍は白城を攻めました。
06:2638年、西暦393年の夏5月に和人が来襲し、白城の使徒である金城をいつかも包囲しました。
06:35将兵らはみんな、出撃して戦うことを願いました。
06:38しかし、王は、今、賊軍は、死の覚悟をして船を乗り捨てて、深く侵入している。
06:45彼らの戦法と当たるべきではないと言いました。
06:48そして、城門を閉じると、敵はこうなくして退却しました。
06:53王は、勇猛な騎兵200を出撃させて、彼らの機路を遮断しました。
06:57また、歩兵一戦を出撃させて、独産に追い詰め、強撃して、敵を退廃させ、おびただしい数の敵を殺したり捕獲しました。
07:08和軍が白城の使徒を包囲したのは、これで3回目です。
07:12さて、私は皇太王妃、皇海道妃を皆さんに紹介します。
07:20この敵妃は、皇国の19代王である皇太王の偉業を称えるために建てられました。
07:27この敵妃によれば、和は白城と九太郎を親民にして、和軍は朝鮮半島で皇国軍と何度か戦いました。
07:34そもそも、白城九太郎は、皇国の族民であり、長江していました。
07:41しかし、和が辛抱年、西暦391年から海を渡り、九太郎白城を破り、親民にしてしまいました。
07:50おや?ちょっと待ってください。
07:54三国式によれば九太郎は和に人質を贈っていますよ。
07:586年、西暦397年の夏5月に、九太郎は和国と友好関係を結び、大使の天使を人質として和に贈りました。
08:11では、皇太王妃に戻りましょう。
08:14なんということでしょう。
08:16その石碑によれば、和軍が白城を占領しましたが、皇国が白城を助けました。
08:229年、西暦399年に、九太郎は千年の誓いを破って和と同盟しました。
08:30そこで、王は九太郎を討つため平城に出向きました。
08:34ちょうどその時白城からの使いが、多くの和人が国境に満ち、城壁や堀を壊し、民を和の親民としたので、皇国領の救援をお願いしたいと願い出ました。
08:4510年、西暦400年に白城を救援するために、5万の大軍を派遣しました。
08:50断居城から白城にかけて、和軍が満ち溢れていましたが、皇国軍が到着すると和軍は退却しました。
08:59おや?ちょっと待ってください。三国式によれば白城も和に人質を贈っていますよ。
09:08元年、西暦402年の3月に和国と友好関係を築いて、那骨王の子の未資金を人質に差し出しました。
09:16皇太王妃によれば、西暦404年に和軍と高栗軍は、大砲地方で戦いました。
09:2614年、西暦404年に、和が大砲地方、現在の高海道地方に侵入してきました。
09:33王の旗印を掲げて、敵を縦横無尽に切りまくり、無数の敵を殺しました。
09:38なんということでしょう。和軍は高栗に攻め入りました。
09:45どうして三国式にはこのような事実が書かれていないのでしょうね。
09:50おや?ちょっと待ってください。
09:53もし、あなたがこの記録を読めば、和がくだらに対して大きな影響力を持っていたことを確信するでしょう。
10:01アシン王14年、西暦405年に、天使大使は和国において不法を聞き、号泣しながら帰国することを和王に超えました。
10:12和王は、兵士100名を伴わせて、大使をくだらに護送させました。
10:16その後、405年、407年、415年、431年、440年にも和は白城を攻めました。
10:28おやおや。中国の歴史書に興味深いことが書いてありますよ。
10:33ソウジョ、漢97、イヴァンデン、和国。
10:39現下20年、西暦443年に、和国王の祭が長功したので、安東将軍和国王の位を与えました。
10:47現下28年、西暦451年に、祭に、四字節と徳は白城、三間奈、から新官、五官、六国諸軍事を加号しました。
10:57驚くことに、和国王の祭は、ソウの皇帝から白城の軍政権を与えられていました。
11:06そして、ソウジョには、コウクリ・クダラ・ワについて書かれていますが、白城については書かれていません。
11:13この事実は、和国王の祭が白城を支配していたことを示しています。
11:1828年、西暦444年の夏4月、和兵が白城の使徒である金城を10日間包囲しましたが、食料が尽きて退却しました。
11:29王は追撃しようとしましたが、左右の重心が、兵法化の説によれば、旧した敵を追い詰めてはならないと言います。
11:37王は、追撃を断念すべきですと言いました。
11:40しかし王は聞き入れないで、数千余機を率いて追い、独産の東で戦いましたが、敵に敗れ、将兵の過半数が戦死しました。
11:50王は、強行をきたして馬を捨てて山に登り、敵がこれを幾重にも囲みました。
11:56突然、農務が発生し、一寸先もわからなくなりました。
12:00敵は、天の印助があるとして、兵を撤収して退却しました。
12:04和軍が白城の首都を包囲したのは、これで4回目です。
12:11その後、459年、462年、463年、476年、477年、482年、486年、497年、500年にも、和軍は白城を攻めました。
12:28あらあら、中国の歴史書に興味深いことが、また書いてありますよ。
12:37随書、漢81、列弁第46、遠い、和国。
12:43白城と九太は和を、珍しいものが多い大国とみなして、共に和国を尊敬し、常に使者を往来させています。
12:52その後、三国式に和が登場するのは、白月の絵の戦いです。
12:57660年に、東白城連合軍は九太らを滅亡させました。
13:04663年に、和軍と九太らの残党は、東白城連合軍と白月の絵で戦いました。
13:11しかし、和軍は敗れ、和は朝鮮半島での足場を、完全に失いました。
13:17あら、いやだ、もう少しで忘れるところでしたわ。
13:232011年に、中国で失われたと思われていた、領植光図大記が発見されました。
13:30その文献によると、白城がサロ国だった時に、漢に属したり、和に属したりしたそうです。
13:37ご視聴ありがとうございました。